メジャイとは、古代エジプトにおけるヌビア人ないしは砂漠の遊牧民。新王国以降は単に首都や墳墓、神殿などを守る準軍事組織を指した。
なので、作中の能力はメジャイが国内の都市や神殿を守っていたことが反映されている。
(civ6wikiより)
古代ギリシアの重装歩兵。ファランクス陣形で知られる。ファランクスを構成する歩兵はホプリタイ(òπλίται)と呼ばれる。由来は彼らが装備している丸い盾(ホプロン)から。
主に都市国家(ポリス)の中流階級以上が構成員で、装備は自腹で購入するため統一した標準装備はなかったが、都市国家ごとによって最低限の条件が存在した。基本的な装備は青銅製の兜と胸甲、そして膝当て。武装は2.4mの槍と青銅で覆った木製の盾、両刃の青銅の剣である。
彼らはファランクス陣形を組みながら戦った。とにかくホプリタイを密集させたのである。
右手に長槍を、左手に大盾を持ち左隣を盾で守るため、正面ないし左翼は強固である反面右は弱点となる。この右側を騎馬兵によってガードする組み合わせで運用されることが多い。加えて左翼に新人を、右翼に古参を配置する事が良く行われた。
このファランクス方陣はギリシャ周辺でも広く伝わり、陣形と装備改良も盛んに行われた。弱点である右翼よりも左翼を厚く配置し、敵の右翼に対して戦列破壊を行う斜線陣形や、マケドニア王国の6mの長槍(サリッサ)を両手で持ち、盾を胴体に吊るし、騎兵を両翼に配置した、マケドニア式ファランクスは特に有名である。相手よりも長いサリッサで防衛しつつ、騎馬による戦列破壊を行うこの戦術は「鉄床戦術」と呼ばれ、ギリシャ統一からペルシア帝国打倒に至る当時の最強の戦術であった。
(civ6wikiより)
レギオンは日本語に訳すと軍団兵を意味する、ローマの軍隊である。古代ヨーロッパにおいて最大かつ最強の軍団であり、その軍事力からローマの栄光を支え、その征服事業に大きく貢献し、衰退をもたらした。
会戦においてはまずピルムによる投擲攻撃を行い、刀剣による近接戦闘を行った。ピルムは曲がりやすく、仮に盾に防がれたとしても盾のバランスを狂わせる為、近接戦闘を優位に進めることが出来たと考えられる。レギオンは敵の装備・戦術をも取り入れる貪欲さ、軍団構成を細やかに変えることができる柔軟さ、兵站と防衛を可能とした実務を兼ね備えた、実にローマ的な集団であった。
【マリウスの軍制改革】
マリウスの軍制改革により、軍団には志願兵制が導入された。それまでのローマ軍はローマ市民の徴兵制であったが、マリウスは志願兵制を導入して、装備と給料を志願してきた兵士に与えたのだ。当時からすれば、貧窮から成り上がる手段の中で一番手っ取り早かったのは軍事的成功をおさめることだったわけである。
結果的にこれは成功し、貧窮したローマ市民は兵役から解放されて家業に専念し、代わって何も生み出さない人々、失業者にとっては有り難い職になったわけである。志願兵制の導入の効用は他にもあり、ローマ軍はアマチュア市民兵からプロ戦闘集団へと様変わりした。職業軍人としてのローマ軍団が出来上がったわけである。戦闘技術に優れ、長期の戦争にも影響されない軍隊の誕生は、戦略・戦術両方の面で絶大な効果を生み出し、後々まで続くローマの帝国版図拡大の原動力となった。
しかし、一見良いことづくめにみえる軍制改革には問題もあった。ローマ外の諸都市からの市民権要求である。改革以前は、危険な軍務は『ノブレス・オブリージュ』としてローマの軍が行い、同盟市はその補助という形で兵を供与していたが、軍制改革によって同盟市も危険な軍務を負担し、ローマ軍団同様の貢献をしたために、「俺らにも市民権を与えろ!」という要求が強くなった。
実際に、この改革がなされても同盟市の待遇はかわらず、単にローマの支配下におかれているようなものだったため、不満を抱くのは当然の事であった。やがて、これは同盟市戦争という内乱につながってゆく。
【プラエトリアニ】
マリウスの軍制改革によって無類の強さを手に入れたレギオン。時は流れてアウグストゥスが初代皇帝に就くと、ローマ軍を満期除隊まで勤め上げた者に世襲のローマ市民権を与える政策を打ち出した。一方で、直属の親衛隊(プラエトリアニ)を創設しイタリア半島の防備を図ったが、これはやがてローマそのものを衰退させる一因となる。
直属の親衛隊は、皇帝にとって最大の擁護者であり、同時に最大の敵であった。
二代皇帝のティベリウスは親衛隊に反逆を企てる隊長、セイヤヌスを粛清するように命じている。その際に、ティベリウスは親衛隊に多額の報酬を支払った。これをきっかけに、十分な給料が払われないならば皇帝を殺害してしまおうという風潮が生まれた。事実、三代皇帝のカリグラは親衛隊に殺害され、親衛隊によりクラウディウスが四代皇帝に擁立している。
時代が下り、235年にセウェルス帝が暗殺された。するとマクシミヌスが親衛隊の指名を受けて皇帝の座に就いた。これ以後、ローマは軍人皇帝時代と呼ばれる内乱の時代を迎えることになった。この軍人皇帝の「軍人」が指すところは、もちろん親衛隊である。21人が49年の間に皇帝の座に就き、元老院の承認がない僭称皇帝も含めれば実に50人の人物が皇帝を名乗っていた。この時代になると、親衛隊の意向に沿った形で皇帝が就くのが当たり前になり、酷いときには皇帝の位を競売にかけるなどという行為も行なわれた。
しかし、親衛隊の専横も遂に終わりを告げる。親衛隊長官であり、帝位に就いたディオクレティアヌスが軍人皇帝時代に終止符を打つと、親衛隊の権限を大幅に縮小した。そして、コンスタンティヌス帝の時代になると親衛隊は解散し、各ローマ軍団へ散らばっていった。
【ゲルマン人の侵入】
少し時代は遡って212年。カラカラ帝は、全ローマ帝国の自由民に市民権を与えるというアントニヌス勅令を発令した。これは先述のアウグストゥス帝の施策で待遇の悪かった補助兵の志願者の減少や帝国の財政難を救う事を狙ったが、これは帝国にとって手痛い枷となった。
そもそもどうして、わざわざ命を危険に晒してまで、ローマ帝国の人間は軍務に就いたのか。何よりも市民権を欲したからである。市民権は所有権や参政権が認められる、即ちヒトが人となれる権利である。だからこそ命を張って軍務に耐え、世襲の市民権を勝ち得たのだ。そんな市民権を全帝国民に与えるなどすれば、軍隊に入る理由が無くなる。事実アントニヌス勅令の後、軍隊に志願する人は激減した。勅令による悪影響は帝国内の社会にも及び、勅令前からの市民権保持者と、勅令後に市民権を得た人の間で社会的差別が起こった。これらの根深い対立や諸問題はじわじわと帝国を侵食し、やがてローマを滅亡へと導くことになる。
軍隊の成り手がいなくなったローマは、帝国外から傭兵(ゲルマン人)を雇い入れることにした。ゲルマン人は帝国内に住み着き、やがては帝国内での居場所を主張するようになった。最終的には、375年からはじまるゲルマン人の大移動によって帝国は致命的な打撃を受け、395年のテオドシウス帝の命により東西に分裂。以降、帝国が一つになることはなかった。
西ローマ帝国は、分裂から100年も経たないうちに西ゴート王国及びオドアケルによって滅亡した。
東ローマには依然として残ったが、7世紀から始まったイスラム勢力の侵攻によって、最早以前の威勢は残っていなかった。歩兵から騎兵中心の軍隊となり職業軍人は消滅して、以前の半農半兵の軍隊へ逆戻りした。そして東ローマもまた最終的には傭兵を使うようになり、新進気鋭のオスマン帝国の前に敗れ去った。帝国の凋落とともに、レギオンは歴史の舞台から完全に消え去ることとなった。
アケメネス朝ペルシアの精鋭部隊。常に定員の一万人が充当されており、一人の兵士が倒れても別の新しい兵士がすぐに補充され、まるで兵士が減っていないように見えることから、ヘロドトスに「アタナトイ(不死)」と渾名された。
アケメネス朝の精鋭の重装部隊とされることが多いが、ギリシアの重装歩兵に比べれば装備面において劣っている。不死隊の装備は民族によって異なるが、主に革張りの盾と槍、短剣、弓矢などを装備していた。戦術としては、数による圧力と人海戦術によって相手の士気をくじくことを基本とした。ヘロドトスは、不死隊をペルシア戦争期にヒュダルネス将軍が率いたペルシアの重装部隊として描写している。
アケメネス朝の文献には不死隊と呼ばれる部隊は発見されていないが、サトラップによって招集される常設軍団がそれにあたるのではないかと言われている。
【歴史】
不死隊についての記述はそのほとんどが古代ギリシア、特にヘロドトスの著述に頼らざるを得ない。不死隊はキュロス2世の時代からペルシアの軍事活動に貢献しており、キュロス2世のバビロン攻略、カンビュセス2世のエジプト遠征、ダレイオス1世のインド遠征・スキタイ遠征などに従軍したとされる。
不死隊について特に有名なのがペルシア戦争で、クセルクセス1世の起こした第二次ペルシア戦争に従軍した。テルモピュラエの戦いではヒュダルネスに率いられ、前線に投入されたがギリシア軍の強固な陣形を破ることはできなかった。しかし、現地住民からの情報によって迂回路があることを知り、夜のうちに間道を抜け、ギリシア軍陣地の後方に到達した。クセルクセスはギリシア軍に投降をすすめたが、ギリシア側はこれを拒否し、特にスパルタ兵は最後の一人になるまで戦い抜いたと言われる。最終的に、スパルタ兵は肉弾戦を恐れたペルシア兵により遠距離攻撃によって全滅した。ペルシア側も2万を越す大損害を被った。
第三次遠征ではマルドニオス指揮下で戦った。陸海両方ともに大軍を擁したペルシア軍だったが、艦隊はサラミスの海戦で壊滅しており、マルドニオスは不死隊を含む30万人の軍勢と共にテッサリアに留まり、翌年アッティカに侵攻しアテナイを破壊した。しかし、同年9月にパウサニアス率いるギリシア連合軍に敗れ(プラタイアの戦い)、ペルシア軍は不死隊を含め20万の犠牲を出し壊滅した。
不死隊が次に歴史書に登場するのはダレイオス3世の時代である。彼らはイッソスの戦いに従軍し、ギリシア人傭兵とともに戦線中央に配置された。ペルシア側は兵数で優っていたが、狭い戦場に兵士を効果的に並べることができなかった。戦況は右翼のアレクサンドロス率いる重装騎兵(ヘタイロイ)によってペルシア軍の前線が分断され、戦線中央のマケドニア軍を圧迫していたギリシア人傭兵部隊は次第に崩壊していった。すでに瓦解した戦線中央にアレクサンドロス率いる騎兵隊が突撃し、ダレイオス3世は敗北を悟り戦場から逃走した。
不死隊はつづくガウガメラの戦いにも参戦したとされるが、その練度は悲惨なものだった。マケドニアの重装歩兵が6mの槍を扱えたのに対して、不死隊の槍はわずか2mだった。会戦では、マケドニア軍騎兵が両翼のペルシア軍騎兵を引き付け、孤立したダレイオスの中軍はアレクサンドロスに攻撃され潰走した。この翌年にダレイオス3世は死に、ここにアケメネス朝ペルシアとその精鋭部隊である不死隊は滅んだ。
フルチェとは、マヤでよく用いられた木の棒のような遠距離用の武器で、片方の先端に矢などを引っ掛けて飛ばす。原理としてはアステカのアトラトルなどが近い。
仕組みは簡単で、マヤでは男女ともにフルチェの使い方を習った。軽装が主であったメソアメリカにおいて、一度でも矢を受けることは致命的であり、戦闘はフルチェによる矢の応酬から始まった。
メキシコ南部に栄えたマヤ文明は、紀元前400年頃から都市への集住が広く行われるようになり、エル・ミラドールやナクベなどの大都市が出現した。衰退期を一時挟んだのち、紀元3世紀頃には大都市の長が「優越王」として影響力を拡大した。
特に、ティカルとカラクムルの勢力が強まり、両都市は他都市の支配者争いに介入し、勢力を維持した。6世紀以降多くの都市が勃興すると、マヤ文明は全盛を迎える。
【ティカル・カラクムル戦争】
(前史)前古典時代のマヤはエル・ミラドール、ナクベの支配が続き、4世紀にはティカルが取って代わった。378年に中央メキシコのテオティワカンがティカルを征服すると、ティカル王チャク・トク・イチャク1世は殺害され、代わってヤクス・ヌーン・アヒイン(位379-404)が即位した。彼はテオティワカンの臣下として行動し、リオ・アスールを征服しカリブ海交易に手を伸ばした。
以降テオティワカンから来た王はマヤに同化し、ティカルはテオティワカンの影響下から離れたと考えられる。5世紀には、ティカルの影響圏は南部のコパンまで及んだ。コパンの創始者キニチ・ヤックス・クク・モはティカルの将軍であり、コパン創設にはティカルの意向が関与していたと考えられる。
カラクムルはトゥーン・カブ・ヒシュ王(位520-546)の元で勢力を伸長し始める。ティカルに対抗するために拡張政策を採ると、546年にはナランホ王の即位を後見し、ナランホを手中におさめた。
553年に、カラコルでヤハウ・テ・キニチ2世がティカルの後援の元即位する。カラコルは長らくティカルに服従する都市であったが、556年にカラクムルと手を結び、ティカルに反旗を翻した。この反乱はティカルの勝利に終わるが、カラコルは562年に再び戦争を仕掛ける。
562年の戦いでカラコルはティカル王ワク・チャン・カウィールを打ち破り、ティカルの勢力は著しく衰退した。代わってカラクムルの勢いが強まり、599年と611年には「渦巻く蛇」王が西のパレンケを侵略した(パレンケでは615年にパカル大王が即位する)。
626年に、ナランホがカラコルから独立する。カラコルのカーン2世(位618-658)はすぐさま軍を起こし、これを打ち負かした。631年にはカラクムル軍がナランホに進駐し、これを征服した。
ちょうど同じころ、629年にティカルはパシオン川の交易路をカラクムルから奪還するため、下流のドス・ピラスに圧力をかけ、ドス・ピラスの統治者にティカル王の弟であるバラジ・チャン・カウィールを据えた。しかし648年にティカルは分裂し、ティカル王ヌーン・ウジョル・チャアクの派閥とドス・ピラス王バラジ・チャン・カウィールの派閥に分かれた。以降、ティカルは内戦状態に突入する。
カラクムル王ユヌクーム・チェン2世(ユヌクーム大王、位636-686)はティカルの内戦につけこみ、650年にドス・ピラスを攻撃した。657年にはティカルにも攻め込み、ドス・ピラス、ティカルの両王はカラクムルに臣従した(ヤシュハ協定)。
(ちなみに、civ6のナランホ女王レディ・シックス・スカイはドス・ピラス王バラジ・チャン・カウィールの娘である。civ6のマヤの首都であるワク・カブナルはナランホの別名。)
ティカル内戦は以降も続き、679年にドス・ピラス王バラジ・チャン・カウィールがティカルに進駐する。682年に先王の子ジャソー・チャン・カウィール1世が王位を取り戻すが、ドス・ピラス軍はティカルにとどまり続けた。さらに、ドス・ピラスはティカルに対する優位性を維持するため、ナランホにレディ・シックス・スカイ(六天の貴婦人)を派遣し同盟国とした。
ティカル奪還を目論むジャソー・チャン・カウィール1世は、695年2月にティカル軍を、8月にはカラクムル軍を打ち破った。
火矢である。ネットで調べた限りではそれらしい情報が見つけられなかった。※要追筆
連弩は古代から中国で使われていた武器。
支持台の上に弓を寝かせて固定したものが弩で、そのうち速射性に優れる物や一度に多数の矢を放てる物を連弩と言った。
多数の矢を放つタイプの連弩は設置する兵器が多いので、ゲームに登場する連弩は速射性タイプでないかと思われる。
連弩の多くは梃子の原理や機械式構造により弦を引けるようになっており、それにより通常の弩より速射性に優れていた。
弩は弓より狙いがつけやすく、練度の低い兵でも使用できた。
弓も弩も連弩も共通するが、威力と射程は弦の張力によって決まる。張力が強いほど弦を引く事が大変になる。連弩は力学的・機械的な補助によって楽に引ける構造になっていたとは言え、速射性を重視すると威力には自ずと制限がつく。
古代中国の連弩は威力が低かったという説があり(その分、速射性には優れていたはず)、おそらく有効射程も短かったであろう。ゲーム内で隣接タイルだと戦闘力が上がるのは、これを逆向きに再現している(つまり本来の威力が隣接タイルで、2タイル先だとダメージが下がる)のではないかと思われる。
プラベターラとは、マハーバーラタにおける象兵のことである。「町を壊す者」という意味があり、砦や城を攻めるときに使用されたことが記されている。要塞化区域に対する戦闘力が高いのもここから来ていると考えられる。
インドでは古くから象兵が主要戦力として用いられており、紀元前6世紀には象が戦場で用いられていた。ナンダ朝の時代には6000頭の戦象を擁していたと言われ、マウリヤ朝の時代には象の使用はますます広がった。
ユッタハッティとは、ヒンディー語で「戦争」を意味する「yudha」と「象」を意味する「hathi」を組み合わせた言葉。検索で出てくる通り、ユッタハッティは「騎象戦(象どうしの戦闘)」を意味する。
レイオマノとは、ハワイの原住民が使用していた、棍棒にサメの歯を取り付けた武器。
テルシオとは、16-17世紀にスペイン王国が採用した軍事編成。パイク兵、アーキバス銃兵、マスケット銃兵とその他士官で構成された。
以下はテルシオの編成の一例。
1567年5月 Tercio de Cerdeña
パイク兵 745名
アルケビューズ兵 647名
マスケット兵 122名
士官・下士官 137名
総数 1671名
ワラカクとは、ケチュア語で「石を投げる者」という意味の言葉。
迅雷銃とは、明末期に登場した、小銃を5つ束ねて連射を可能にした武器。名前と性能のインパクトから、しばしばRPGゲームなどに登場する。
ノルマン騎士(英語版:chevaler)は古フランス語で「騎士」を指す。
(civ6wikiより)
マムルークとは、アラビア半島を中心にトルコやエジプトなどのイスラム王朝で用いられた奴隷身分出身の軍人。「所有される者」という意味がある。
【前史】
東方のササン朝との戦いで重装騎兵の強さを目の当たりにしたローマは、自らも重装騎兵を配備するようになった。カタフラクトと呼ばれた彼ら重装騎兵は、東ローマとペルシャで主力兵科として活躍していた。
一方、7世紀に台頭したアラブ人のイスラム勢力は歩兵と軽騎兵が主力であり、馬甲を付けた重装騎兵は組織されなかった。東ローマはシリアやエジプトなどの経済基盤を奪われ、強力な重装騎兵を編成する経済力を失った。イスラム勢力と東ローマとの戦いは散発的な小規模会戦が多くなり、重装騎兵の活躍する機会が減り、重装騎兵は一時的に姿を消した。
10世紀になると東ローマの経済が立ち直り始め、イスラム勢力へ攻勢に出るようになると、敵騎兵を駆逐して歩兵を蹴散らせる強力な重装騎兵の必要性が高まった。イスラム側でも、アラブ人中心のアッバース朝が没落し、ペルシャ人とテュルク人が台頭すると、多数の軽装弓騎兵と少数のエリート重装騎兵の編成に回帰し、再び重装騎兵が戦場を支配した。
【マムルークの歴史】
マムルークの始まりは、9世紀頃のアッバース朝で権力争いで優位に立つためにテュルク人傭兵を大量に雇用したのがきっかけで、それ以降もマムルークの多くがテュルク人であった。テュルク人は雇い主以外にはイスラム帝国に特に利害関係が無いことから、軍事力のみを欲したアラブ人君主がこぞって起用した。テュルク人の他にもスラブ人も多く、十字軍の際にはエチオピアの黒人騎士とイスラム帝国の白人マムルークが戦う場面もあった。
マムルークの訓練生は戦士として認められるために、乗馬術/槍術/剣術/弓術の4つを完璧に極める必要があり、そのうち一つでも欠けていると戦士になることが出来なかった。特に乗馬弓術は様々な姿勢で正確に的に当てなければならないという高度な訓練が行われていた。白兵戦にも長けており、アイン・ジャールートの戦いでは常勝無敗のモンゴル軍を破り、シリアを奪還した。マムルークは戦術/戦略に関しても熟知しており、戦場では参謀や策士を勤め、内地では公務員として従事した。この制度はオスマン帝国にも導入され、イェニチェリ養成のデヴシルメ制度に影響を与えた。
13世紀にイスラム帝国が解体される過程で、マムルークは軍閥化し、マムルークの支持を受けたシャジャル・アッ=ドゥッルによってエジプトにマムルーク朝が開かれた。マムルーク朝は16世紀にオスマン帝国によって併合されるが、マムルークはオスマン帝国の支配下で18世紀末までエジプトの軍閥として存在していた。
ナポレオンのエジプト遠征で、きらびやかな鎧に包まれた中世風のマムルークは、銃を装備した近代的なフランス軍歩兵に敗北した。しかし、彼らはイギリスと手を組んでフランス軍を苦しめつづけた。ナポレオンは彼らの勇猛さに感銘を受け、フランスに付いて来た小数のマムルークにフランス騎兵を加えてマムルーク近衛隊を創設した。ナポレオンがフランスに帰還したあと、ムハンマド・アリーがエジプトの実権を握り、アリーによって急速な近代化政策が推進された。既に時代遅れであったマムルークはムハンマド・アリーによって粛清され、ここにマムルークは消滅した。
カラムとは、現地の言葉で「船」を意味し、もっぱらチョーラ朝の海軍のことを指す。専門的な常備海軍ではなく、主に交易用の船で構成されていた。チョーラ海軍は世界初の外洋海軍とも呼ばれ、ラージャラージャ1世とラージェーンドラ1世の下でセイロン島、ペグー、シュリーヴィジャヤ王国などを打ち破り、チョーラ朝に経済的繁栄をもたらした。
ちなみに、チョーラ朝固有の海軍指揮官のオトルは、外国船を監視する諜報部隊のことである。
チェトバンとは、インドネシア地域で用いられた大砲。東洋式と西洋式の2種類がある。元軍の侵攻によって前装式の大砲がマジャパヒトにもたらされ、「ジョング」と呼ばれる大型の帆船に多数搭載された。全長約70mの巨大な戦艦から繰り出される砲撃は凄まじく、マジャパヒトの海軍思想を如実に表していた。トメ・ピレスによれば、1515年の広州で外国船は沖合の島に停泊することが決められた。チェトバンを装備したインドネシアの船は、明にとっても驚異であったことが伺える。
16世紀以降、ポルトガルが香辛料を求めてインドネシアに本格的に進出したときには、すでにマジャパヒトは滅び、ドゥマク王国やマタラム王国が栄えていた。インドネシア地域の造船技術と加工技術はポルトガル領のインドへ輸出され、ポルトガルの造船と鋳造に大きく貢献した。
アバンボワとは、ガンダ語で「衛兵」を意味し、具体的にはカバカ(ブガンダ王)王室衛兵隊を指す。ブガンダ王国は「戦争国家」と形容されるように、乾季になると戦士団が遠征を行い、多数の略奪品を持ち帰った。略奪するとHPが回復するのはこのためだろうか。
ブガンダ王国はヴィクトリア湖に戦闘用カヌーを整備し、周辺の小国を従属させた。陸上ユニットが水陸両用の特性を持っている(河川襲撃)のはこのためだろう。10万人の軍隊と200隻のガレー船を用いた組織的襲撃は凄まじく、その軍事攻撃(ブルタバロ)は軽装歩兵が迅速に侵攻し、瞬く間にその地を略奪した。
満州族の軍事組織・八旗のこと。
セポイとは、ムガル帝国ないしは東インド会社が雇ったインドの歩兵。語源はペルシア語で軍隊を意味するセパーヒ。スィパーヒーと語源は同じだが、セポイは歩兵のみを指す。
ソルダデーラとは、メキシコ革命に参加した女性兵士のこと。アデリータとも呼ばれる。それまで抑圧されるだけであった彼女らにとって、弾薬を肩にかけ銃を手に取る姿は因習からの解放であり、数々の作品で取り上げられた。
しかし、メキシコの女性たちが自ら革命に身を投じたかといえば、決してそうだとは言えない。男性の多くが革命に参加し、女性を守る存在がいなくなった。こういった女性は夫や兄弟とともに革命に従軍せざるを得なかった。
革命に参加した女性の主な役割は、野営地の設営、兵士の看護、物資輸送などであった。特に女性兵士には看護婦としての役割が求められた。赤十字による助力が得られない中、1911年に革命軍の治療のため中立白十字が設立され、多くの女性が治療・看護に従事した。もちろん、女性兵士の中には男性とともに前線で戦闘に参加する者もおり、彼女らは男性になりすまして軍に入隊した。
革命後のメキシコでは、ソルダデーラはもっぱら銃を手に戦闘に参加した、革命のために自らの命を捧げたヒロインとして描かれ、看護などの側面は往々にして無視された。近年では、ソルダデーラは権利のために戦う女性のシンボルとして、フェミニズム運動でも取り上げられる。ソルダデーラはその時々の都合によって見方が異なるが、その裏には何の称賛も受けなかった多数の従軍女性がいることを忘れてはならない。
皇帝近衛隊とは、フランス大陸軍におけるナポレオン1世直属の精鋭部隊である。「エリートの中のエリート」とも呼ばれ、身長1.76m以上、軍に10年以上所属すること、会戦に3回以上参戦することなど厳しい加入要件が設けられた。当初は歩兵2個連隊と騎兵2個連隊で構成され、のちにマムルーク連隊やポーランド槍騎兵連隊などが加わった。
海兵隊とは、アメリカ合衆国武官組織の1つで、2024年現在約169,000の現役と約33,000の予備役を有する。モットーは「Semper fedelis(常に忠誠を!)」。
”決議、海兵隊大隊を2個編成し、大佐1名、中佐2名、少佐2名、および他の連隊で通常採用されているその他の士官から構成し、他の大隊と同数の兵卒から構成する。-第2回大陸会議”
旧宗主国のイギリス軍に倣って、1775年11月10日の第2回大陸会議で大陸海兵隊の創設が決まった。任務は多目的なものであったが、(他国の海兵隊と同じく)艦船の秩序を維持し、船長や士官の身を守り、海上での交戦中は、狙撃手として敵船の士官や砲手、操舵手を狙い撃ちすることが期待された。同年11月28日にサミュエル・ニコラス大尉が海兵隊司令官に任命された。
海兵隊はホプキンス准将の海軍に従軍し、1776年3月に火薬確保のためバハマのニュープロビデンス島に上陸した。アメリカ軍で初めての強襲作戦であり、海兵隊は海軍の支援のもとモンタギュー砦を占領した。ナッソー砦に撤退したイギリス軍は火薬を外に運び出し、ナッソー砦が降伏した時には88門の大砲と15門の迫撃砲しか残っていなかった。
(civ6wikiより)
コサックとは、ウクライナやロシアに存在した軍事的共同体で、特に16世紀以降ウクライナに住み着き、ポーランド・リトアニアやロシア・ツァーリ国に属した人々を指す。
【コサックダンス】
日本人にとって『コサック』と聞いたら、腰を低くし、腕を組んで足を速く投げ出しながら踊るコサックダンスをまず連想するだろう。
コサックダンスはウクライナの民族舞踊の一つであり、ウクライナ語では『ホパーク』と呼ぶ。元々はキエフ大公国を滅ぼしたバトゥ率いるモンゴル帝国の武術であり、それが「タタールのくびき(モンゴル人による支配)」から逃れた後に形を変えて残ったものである。銃の普及に伴って、下半身を鍛えるという訓練の意味合いで用いることもあり、コサック・ダンスはコサックもしくは男性が踊る事が多かった。17世紀後半にコサックがポーランドから独立し、コサックによる国家(ヘーチマン国家)が誕生すると、コサック独自の踊りだったホパークは老若男女問わず踊る大衆的なものに変化していった。
しかし、それから100年ほど経つと、ポーランドやロシアによってヘーチマン国家は分断され、その統治権も有名無実と化していった。露土戦争によってロシア帝国がウクライナを手中に入れると、コサックがマゼーパ将軍やステンカ=ラージンの反乱などでロシアを散々苦しめてきた経緯を鑑みてか、ホパークを含めコサックの伝統は徹底的に禁じられた。以降、コサックダンスは民謡としてのみの性格が残り、農民の間で踊られるようになる。
19世紀に入って農民の間でコサックダンスを取り入れた劇場が流行すると、プロの劇作家たちもこれに注目し、20世紀にはロンドンにおいてもコサックダンスによる演劇が行われた。ロシア革命で政権を掌握したソ連は、文化を共産主義礼賛の道具にしか見ていなかったため、それに資することは無いと判断されたコサックたちは国家による支援を受けることが出来ず貧窮した。一部には反乱をおこすものもいたが鎮圧され、ソ連の下でコサックは苦しい生活を強いられた。とはいえ、ショローホフのコサックたちの逆境を描いた『静かなドン』のおかげでコサック文化が完全に廃れるということはなく、コサックはどうにか存在を確立していた。やがてソ連が崩壊し、ウクライナが独立すると、コサックは再びウクライナ文化の中心として日の光を浴びることになった。現在においても、ウクライナの紙幣には二体のコサックが描かれている。
【歴史】
コサックの起源は不明な点が多く、はっきりとはしてないが最古のものは黒海の内海にあたるアゾフ海に注ぐドン川流域に居たドン・コサックと現在のウクライナ南部一帯に居たザポロージャ・コサックの二つあったとされている。
当初のコサックはヨーロッパの没落貴族や盗賊、逃亡してきた農奴などからなりたつ、俗な言葉でいえばゴロツキの集団と言って差し支えは無く、黒海やアゾフ海周辺を荒らしまわった。しかし、それは普段の姿であり、セルジューク朝など黒海周辺にまで触手を伸ばそうとするイスラムの諸勢力と戦う事もしばしばあった。
16世紀後半に入ると支配国からの支援や保護を受け、ザポロージャコサックはポーランド=リトアニア王国に、ドンコサックはロシア・ツァーリ国の下で活躍することになる。しかし両国はコサックを軍団として用いるのみならず、コサックの自治権そのものを奪う事も画策していた為、徐々に反感を買う事になり、コサックは17世紀から18世紀にかけて反乱を起こし続けた。世界史の教科書に主に取り上げられるのはステンカ=ラージンとプガチョフの二つの反乱だが、いずれもドンコサックの反乱であり、両方とも鎮圧され、ロシア帝国の体制下に組み込まれる。ロシアは当時強国の道を歩んでいた為当然と言えば当然である。
しかし、ザポロージャコサックは斜陽著しいポーランド=リトアニア王国から支配権を勝ち取り、自らの国家(ヘーチマン国家)を建国した。これは現在のウクライナあたりにあり、オスマン帝国やクリミア・ハン国などの脅威から(皮肉にも)ロシアを守っていた為、ロシアはヘーチマン国家を間接的に支援する事になった。そしてまた皮肉にも国家を作っていた事や、コサックの近代化に反発して自立を主張しすぎたためにロシア皇帝の反感を買い、18世紀の終わり頃にザポロージャコサックはロシアに壊滅させられることとなった。
残ったドンコサック達はどうなったのだろう。19世紀になると彼らは普通の市民たちや貴族と同じような階級に列せられ、税金が免除される代わりに騎兵として兵役を負う事になった。ナポレオンが1812年にロシア遠征を行った際にも、コサックたちは8万と言われる数を動員され、主に(ナポレオンの)退却戦において功績を残した。コサックは俊敏な動きで疲労困憊のフランス兵を次々と屠ったのだ。
また、ドンコサック以外にも黒海東沿岸に居たクバーニコサックもロシアの様々な戦いに参加し、功績を残す。また、このような戦闘以外にも辺境の警備や治安維持といった職務もこなす。
しかし、コサックたちは火器の急激な発達による戦列歩兵の台頭などによって段々とその立場を退きつつあった。(尚、日露戦争の際にもコサックは従軍し、秋山好古率いる日本の騎兵隊とも交戦している)
コサックに不幸が降りかかったのは、1917年からはじまるロシア革命からである。ロシア帝国に押さえつけられていた各地のコサックは、白軍としてソヴィエトと戦い、白軍の主力として赤軍に大きな損害を与えた。しかし白軍はソヴィエトに敗北し、コサックらは祖国を追われることになった。
革命後、ソ連はコサックに対してなんら支援をせず、これまでの経緯から反乱分子とみなされて次々と処刑されたり縄目を受けたり追放されたりと、コサックの多くは悲惨な運命をたどることとなった。しかし一部にはソ連に降伏したコサックもおり、1936年には赤・コサック軍として戦線に復帰する事になった。それ以外の追放されたコサックは、独ソ戦においてドイツ軍の味方をしソ連に復讐を果たそうとしたが、彼らがどうなったかは読者の知るとおりである。
ソ連が崩壊すると、コサックたちの復権が命題としてかがげられるようになり、現在のロシアでは学校教育のプログラムに取り入れているほどである。また、現在コサックを自称するものは数百万人ほどいるとされているが真偽のほどは不明である。
最後に、コサックの帽子について説明しよう。
毛皮の暖かそうな縁なし帽は『パパーハ』と呼ばれ、コサックやカフカス人の誇りの象徴である。パパーハは誇りであるが故に滅多な事で脱ぐことは許されず、死を覚悟する争いに臨む場合や、その逆で争いをやめるよう懇願するときにのみ脱ぐことが許された。
パパーハはコサックの象徴であるが故に、ソ連時代やエリツィンの時代では赤コサックや高官のような例外を除き着用が許されなかったが、2005年にようやく正式な軍装として復活した。
フッサーとは、近世ヨーロッパにおいて用いられた騎兵。日本では軽騎兵や驃騎兵と訳される。
その起源は14世紀のハンガリーにあり、マーチャーシュ1世の時代には精鋭部隊として大々的に編成され、オスマン帝国軍と互角の強さを見せた。マーチャーシュの死後はハンガリー国外へ散らばり、特にポーランドに渡ったフッサーは「フサリア(ウィングフッサー)」という衝撃重騎兵となった。
プロイセンにおけるフッサー(軽騎兵)の運用はフリードリヒ2世(大王)に始まった。オーストリア継承戦争でオーストリア軍の散兵部隊に悩まされたフリードリヒ大王は、機動力の高いフッサーを採用し、敵勢の偵察や散兵線の突破などに用いられた。
カチューシャとは、ソビエト連邦が第二次世界大戦中に開発した自走式多連装ロケット砲の愛称。1941年7月14日に実戦投入が始まり、終戦までに1800基以上が製造された。
シェツーカとは、ドイツの航空機メーカー・ユンカース社の開発した急降下爆撃機Ju 87の愛称。
通常、愛称の「Stuka」は急降下爆撃機そのものを指し、日本語ではシュトゥーカ、スツーカなどと表記されることが多い。
キスポコとは、ショーニー族の5つの支族の1つ。
現在のアルジェリア東部にあったヌミディア王国は、第二次ポエニ戦争までカルタゴと結んでいた。ヌミディア騎兵の活躍が見られるのは、ハンニバルのローマ遠征のときである。
ガリア兵がカルタゴに降る契機になったティキヌスの戦いでは、ヌミディア騎兵は両翼に配置され、質・量ともに貧弱なローマ騎兵を圧倒し、敗走に追い込んだ。ハンニバルは、自身の領土から徴収したヒスパニア騎兵とカルタゴ軍の勢いに降ったガリア騎兵を連れていたが、いずれもヌミディア騎兵に戦闘力で劣り、ヌミディア騎兵はカルタゴ軍の切り札として重宝された。
ボルヤールとは、ブルガリア第2帝国における貴族の名称。第1帝国ではボイラと呼ばれた。
| ユニット名 | civ5 | civ6 | civ7 |
|---|---|---|---|
| 陸上ユニット | |||
| 近接戦闘 | |||
| メジャイ | - | △ | ◯ |
| 重装歩兵 | ◯ | ◯ | ◯ |
| 不死隊 | ◯ | ◯ | ◯ |
| レギオン | ◯ | ◯ | ◯ |
| キスポコ・ネナト | - | - | ◯ |
| レイオマノ | - | - | ◯ |
| 黄金腕輪歩兵 | - | - | ◯ |
| テルシオ | ◯ | - | ◯ |
| 侍 | ◯ | ◯ | ◯ |
| アバンボワ | - | - | ◯ |
| セポイ | - | - | ◯ |
| ソルダデーラ | - | - | ◯ |
| グサ | - | - | ◯ |
| グルカ兵 | - | - | ◯ |
| イェニチェリ | ◯ | ◯ | ◯ |
| 海兵隊 | - | - | ◯ |
| 遠距離戦闘 | |||
| 投槍兵 フルチェ | ◯ | ◯ | ◯ |
| 火矢 | - | - | ◯ |
| 連弩 | ◯ | - | ◯ |
| 花郎 | - | - | ◯ |
| 和弓兵 | - | - | ◯ |
| ケシク | ◯ | ◯ | ◯ |
| 投石兵 ワラカク | ◯ | ◯ | ◯ |
| ヴォイ・チェン | - | ◯ | ◯ |
| 騎兵 | |||
| ユッタハッティ | - | - | ◯ |
| プラベターラ | - | - | ◯ |
| ヌミディア騎兵 | - | - | ◯ |
| マガル | - | - | ◯ |
| マムルーク | - | ◯ | ◯ |
| ノルマン騎兵 | - | - | ◯ |
| ボルヤール | - | - | ◯ |
| 都房 | - | - | ◯ |
| コサック | ◯ | ◯ | ◯ |
| フッサー | - | ◯ | ◯ |
| ゴラーム | - | - | ◯ |
| 攻囲 | |||
| チャン・ビュン | - | - | ◯ |
| 火車 | ◯ | ◯ | ◯ |
| カチューシャ | - | - | ◯ |
| 海軍 | |||
| カリア | - | - | ◯ |
| スループ | - | - | ◯ |
| バイキング | - | - | ◯ |
| リヴェンジ | - | - | ◯ |
| 三笠 | - | - | ◯ |
| バルバリア・コルセア | - | ◯ | ◯ |
| 亀甲船 | ◯ | - | ◯ |
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